わずかな時間


by rin6174

カテゴリ:昔々( 8 )

神奈川県立 T 高校

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※画像とタイトルはほぼ関係ありません(^^;
 高校生の時は、こんな感じだったかもなあって(^^;;;




今月半ばに、高校の同期会がありました
節目の記念の会ということで、現在の同期生約400人のうち、
約半数の仲間が出席したという賑やかなものでした

受付を済ませ、幹事殿から渡されたのは高校生の時の名前の名札
それを首から下げて会場に入りました

横浜市内某ホテルの会場に入ると、既に大勢の人で埋まっていました
名札とお顔を盗み見(失礼…あまりにも久しぶりだったので正視するのも、
勿論正視されるのもすぐには躊躇われました)しながら進みました
三年生の時のクラスの数字札が据えられたテーブルに行くと
懐かしい顔が沢山ありました

同じクラスになったことがある人はさすがにわかりましたが、
卒業以来ものすごく時間が経過していて、お顔を見ても、名札を見ても、
思い出せない方もかなり・・・
反対に、ほとんど雰囲気が変わっておらず、すぐにわかる方も沢山居ました
目尻にはシワ、髪には白いモノが混じっている人がほとんどでしたが、
とても同じトシとは思えない位若ーい人もいましたね
さて、私はどっちだっただろう??(自爆) 

…そこから3時間、何だかあっという間に時間は過ぎました
ご迷惑をおかけした恩師にお詫びをし(笑)、
同期生とも、自分が思っていた以上の多くの方々と言葉を交わし、
充実したひとときを過ごすことができたのでした

幹事の皆さま、お忙しい中お出で下さった先生方
本当にありがとうございました・・・心から感謝いたします
死ぬまでにもう一度くらい、こんな機会がありますように~(笑)

雑感+今だから言えますが・・・そしてまた長くなりそうなのでこちらで
by rin6174 | 2010-11-27 10:16 | 昔々 | Comments(14)

導かれ集う

導いたのは、私が学生の頃に何年間か習い事をしていた、その先生のご主人でした

28日にそのご主人が亡くなったと知らせをうけたので、
先生のお宅に伺ったのでした
大正生まれということでご高齢であり、危篤の状態が何日も続いていたため
勿論しんみりとした寂しさもありましたが、
先生も「主人もやっと楽になれた」と仰っていて
大往生され、それをしっかり看取られたのだなという感じがしました

私は、その先生のところで一緒に習い事をしていた年上の友人と、
先生のお嬢さんの嫁ぎ先のお店に以前勤めておられた方と3人、
読経がある御通夜に伺えないということで
今日お線香をあげさせて頂きました

私と友人はそのお店でアルバイトをしていたこともあり、
あれこれ混ざり合った、共通の知り合いなのでした
先生の娘さん二人、上の娘さんのご主人、お孫さんが3人、お孫さんのお嫁さん、曾孫クン
皆さんで先生と棺のご主人を囲み、明るいお部屋で談笑しておられたので
肩の力が抜けて談笑に加わりました

二十年以上前の話まで出て、まるで同窓会のようでした
とても御通夜と思えぬ和やかな雰囲気となり、会話は途切れることがありませんでした

何年も何十年も、会っていない大勢の人と、いちどきに会い、話し、
それぞれの懐かしい思い出を伝え合う
年々、こういう機会は慶弔ごとだけになってきていて、
「またゆっくり会いましょう」
集った人とそんな言葉で別れても、大概そのままで
次の慶弔ごとがあった時まで会わないことがほとんどだと思います

若い頃はそんなことにちょっとした抵抗を感じたものですが
今は素直に感謝しています
亡くなった方が、疎遠となった懐かしい人達に会わせてくれる
集う機会を与えてくれている

御通夜やお葬式というものには、
故人に導かれ集い、集った日の懐かしさ、それが
また故人への思いを深くする

そんな意味もあるのかなあなどと

有り難い事だなどと

思った今日でした
by rin6174 | 2006-03-30 02:06 | 昔々 | Comments(8)

昔々ではないのですが

たまたま こんな色の写真になりました

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こんな感じの頃の映画を観に行ってきます
by rin6174 | 2005-11-27 10:51 | 昔々 | Comments(14)

母の甘辛い煮物

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私が作る南瓜の煮物は
それだけ食べて丁度よい味加減

母の作るそれは少し濃い甘辛さ
しっかりとおかずになる味付けだった
母の南瓜の煮物

その甘辛さを舌に思い出すハロウィン



次の休みは
母と同じ味に煮てみよう
by rin6174 | 2005-11-01 00:34 | 昔々 | Comments(14)

ちょっとした、


記念日だった9月21日は、
あ、と気が付いた時には昨日になっていた


それが記念日になったその日のことを思い出してみる
様々な思いが交錯する


思い出すかつての自分は、笑っている
少し疲れた顔だけれど


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ふじこは、どう思う?

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幸せで笑っていたんだと思う?
by rin6174 | 2005-09-22 01:10 | 昔々 | Comments(14)
旭兵器工場内では、けが人が多く、医務室では手当てが間に合わないから
四、五人ずつかたまって、市内の病院に行って手当てを受けるように言われ、
私や美登女(みとめ)さんたちは一緒に工場を出ました。
川の土手を橋の方向に走って行き、途中で初子さんに会いました。
混乱の中で、舟入方向へは行けない、己斐の方へ逃げようという人々の声が聞こえたので、
私達もついて行きました。
途中、死んで目の玉が飛び出ている人や、けが人が沢山いて、助けを求めている声が
あちらこちら聞こえてくるし、ざわめきや火事で炎に包まれ、足はぶるぶるふるえて
歩いているのがやっとでした。川の中には、木切れやたらいや、洗濯板につかまって
浮いている人も沢山いました。
逃げる途中、今の庚午橋が建造中で渡る所が丸太と八番線だけで恐ろしく、
八番線につかまり、不安定な丸太に足を乗せて、後ろの人たちからは
「よう渡らんのならおりてしまえ」と怒鳴られるし、
サーカスのようにして庚午橋を渡り終えたときにはぶるぶる震えが止まらず、
金縛りの状態でした。
そうしていると、馬が四、五頭おなかとお尻が焼けて気が狂ったように走り去って行きました。
そして庚午の土手を畑の方へおりて細い道を歩いていたら、とつぜん空が暗くなり、黒い雨が降り、
からだ中ずぶぬれになりながら歩き、己斐から似二、三つ宮島寄りの駅に出ました。そこから
沢山のけが人や逃げ惑う人達とともに線路づたいに己斐から横川駅まで枕木を踏みながら
歩いて逃げました。
混乱の中だったので、靴を履いていたかどうかは覚えていません。あしの裏が熱くてがまん出来ないので、
救急袋に足袋があるのを思い出して履きました。
横川駅から可部線の線路づたいに下祇園の駅まで行った時、駅員さんが
「たいへん疲れている様子だから、重いけが人が少ないようならば電車に乗りなさい」と
声をかけてくれましたので、駅の待合室に行き腰掛けようとしましたが、膝が曲がらず、ようやくの思いで座りました。
・・・電車が来て乗せてもらいました。車中では腕の皮が一枚剥けてぶら下がっている人や、
頭の毛は帽子のかたちに焼け、くちびるはめくれて晴れ上がっている人や、口の中はじゃりじゃり、
鼻の穴は真っ黒、パーマをかけた頭は毛が逆立って塵がつもっていたりして泣き叫ぶ人や、
子供が家の下敷きになって助けを求めていてもどうすることも出来ず、子供を残したまま
自分だけ逃げ延びているのを悔やんでいる母親など悲惨そのものでした。
電車が可部の駅に着いて、警察でカンパンを半袋ほどもらい、とても美味しかったのを覚えています。
可部からは、バスに乗せてもらい、吉田町の上入江で降ろしてもらい、下入江まで歩いて帰り着いたころには
夏の陽も暮れて、家々には電気が灯り、人々が「広島の方向の空が赤い、大分やられたんじゃろう」と話し、
私達を見て「元気で帰れてよかった」と肩を抱いて泣いてくれました。



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被爆したということを認定してもらい、手帳の交付を受けると、その手帳で医療費控除などの
優遇措置を受けられます

今の申請方法もそうなのかどうかわからないのですが、以前はどこで被爆し、どんな経路で逃げたか、
誰と逃げたか、などということを申請時に提出しなければなりませんでした

上の文章は、その申請のために書かれたものです
by rin6174 | 2005-08-06 23:33 | 昔々 | Comments(14)

お父さんが、

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泣いて喜ぶナントカ・・・って、看板が車の前に飾ってありました

またまた横浜そごうの紳士服フロアです

全体像は、マネキンが周りに居て
どこからどう撮っても変な感じだったのでやめました
by rin6174 | 2005-06-12 18:23 | 昔々 | Comments(11)

壊れてしまうもの


横浜・HONEY GARDEN
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休みの日、時々散歩に行く運河沿いにこれは建っており、大安の日などは建物に負けない
綺麗なお嫁サマや、美しく着飾った列席の方々が庭に集う姿を見ることが出来ます。
これができたのは、まだまだほんの数年前のことで建物は充分新しく美しく、未来永劫、
この輝きを失わないような気さえするのです。
ですが、年々時の過ぎる感覚の加速度が増している私としては、ふと気がつくと、
うっすらと紗がかかったようなほこりっぽい色になっているのではないかという、
焦りにも似た思いに、苛まれます。

そしていつか壊される。
もしくは、壊れてしまう。




原爆ドーム
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この建物は、既に壊れているので、この状態に保つためにとてもお金がかかっています。
保存処置をしていても朽ちていくので、もう取り壊さねば危ないという意見もあります。
しかしながら、この建物は残さねば、戦争の悲惨さを後世に伝えねば、という意見の方が
まあ、圧倒的に多いわけです。
個人的には、自分が生まれたときからこの建物はこの姿でここにあるわけなので、
戦争の生き証人というよりも、母親の実家がある街の建造物のひとつといった感の方が
自然な感じのものです。

形あるものはいずれその形をなくすのが自然でしょうから、この、すでに壊れている建物が
これほど長い間この姿でここにあるのは、何やら痛々しく、ひりひりした思いにかられます。
何だかとても無理やりに、この状態を続けているような。

もう、壊れてしまっても、その形を無くしてしまっても、いいんじゃないか。
このところ、この写真を見るたび、そんな思いにかられてしまうのです。
この状態を、使命感をもって維持していらっしゃる方々に対しては、甚だ失礼な考え方だとも、
思うのですが。
しかし、やはり、ひりひりと痛く思うのです。
by rin6174 | 2005-04-11 23:30 | 昔々 | Comments(6)