帰宅前に今夏の原爆ドームを見に行く
実家から横浜の自宅に帰る日、新幹線に乗る前に、
原爆ドームを見るため街の中心部に出ました
市電から降りると、服から露出している部分が
チリチリする程陽射しは強く、日陰を選んで歩きました
アスファルトの照り返しはいかにも眩しく、
上からは炙られ、
下からは蒸し焼きにされているようでした
商店街のアーケードを抜け、元安橋の手前を曲がると
爆心地のすぐそばにドームはあります
何度も見てきているこの建物について、
様々な思い入れはあっても、
悲惨さを伝える歴史的建造物という感覚を超える程の思いは
ありませんでした
崩れて然るべき年月が経っているのに、
その役目のために形を保たねばならぬ
ドームそのものを、何だか哀れに思っていました
8月だけあって、周囲に人が多いドームの前に立って、
いつもと印象が違うと思いました
溶けるほどの熱線を浴びてそこに在るドームは母と重なりました
熱線と爆風と放射能で体の外も中も壊れた母と
照りつける陽射しがあたり腕がヒリヒリしています
今度は、自分と母が重なりました
腕はチリチリと音を立てるように熱く痛く、このままでは
ほんの少しの時間で黒くなってしまいそうでした
そのうちに、痛く悲しく、ドームを見ていられなくなりました
・・・ 感傷かな?いやそんなことは
どんな悲劇も惨劇も
まず最初には客観につとめ、
目の前の物を見ていられなくなることなどなかったのに
全く私らしくない
けれど、辛くてその場に立っていられなくなり、踵を返しました
不覚にも歩道を歩きながら涙が出そうになりました
まだ、新幹線の時間には充分間があったのですが、
急いで横断歩道を渡り、道路の真ん中の市電乗り場から
広島駅行きの電車に乗ったのでした
市電の窓から街を見ながら思い出していました
炉がひとつしかない寂しい火葬場で母が焼かれた時にも
炉の前に立ち確かに熱いと思ったけれど、
この時のような痛みはなかった
何故今になってこんなことを思ったのか
新幹線の席に座り、エアコンの冷気を浴びて汗が引いた頃
母は60年前生きながら焼かれたんだと気づきました
「それは、痛いに決まっている」
すばやく流れる景色を見ながら呟きました
もう涙は出ませんでした
ただ、受け留めようと思いました
by rin6174 | 2005-08-16 00:13 | 出来事 | Comments(10)
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ssk0004 at 2005-08-16 17:55
先日の倫さんのお母様の話を聞き(見て)今回の倫さんの
文を読んでから見るドームは・・・私にはやはり痛々しい。
でも、上手くいえないけど、この時の倫さんにはお母様の声が
聞こえていたのかもしれませんね。
文を読んでから見るドームは・・・私にはやはり痛々しい。
でも、上手くいえないけど、この時の倫さんにはお母様の声が
聞こえていたのかもしれませんね。
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tabo2005 at 2005-08-16 21:22
倫さん,こんばんは。
倫さんのお話を読んでいて「火垂るの墓」を思い出しました。
両親を失った14歳の清太と4歳の節子の兄妹の余りにも哀しい物語です。
“母は60年前生きながら焼かれたんだと気づきました”
なんて,痛々しい,そして悲惨な文なんでしょう。
1秒でも早く,たった今世界中で起きている戦争が終結することを,心から願わざるをえません。
倫さんのお話を読んでいて「火垂るの墓」を思い出しました。
両親を失った14歳の清太と4歳の節子の兄妹の余りにも哀しい物語です。
“母は60年前生きながら焼かれたんだと気づきました”
なんて,痛々しい,そして悲惨な文なんでしょう。
1秒でも早く,たった今世界中で起きている戦争が終結することを,心から願わざるをえません。
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ringoame15 at 2005-08-16 23:05
こんばんは。
私が子供の頃は、終戦記念日や、原爆記念日に夏休みの登校日が組まれてて、その時間に黙祷した覚えがあります。
戦争は、人々を不幸にしかしないというのが、子供ながらに伝わってきてました。
りんさんのお話は、りんさんには辛いことかもしれませんが、今の子供達に伝えてほしいことです。
子供の頃、背中に、銃弾を受けた人の戦争体験を聞いたり、する機会も普通にあったりした気がします。今では、そういう機会を持つほうが難しかったり。。。
原爆ドームは、生き証人として、その命を延ばしていかなきゃいけないのは、そういう時代が、人の気持ちを動かしていくのでしょう。
私が子供の頃は、終戦記念日や、原爆記念日に夏休みの登校日が組まれてて、その時間に黙祷した覚えがあります。
戦争は、人々を不幸にしかしないというのが、子供ながらに伝わってきてました。
りんさんのお話は、りんさんには辛いことかもしれませんが、今の子供達に伝えてほしいことです。
子供の頃、背中に、銃弾を受けた人の戦争体験を聞いたり、する機会も普通にあったりした気がします。今では、そういう機会を持つほうが難しかったり。。。
原爆ドームは、生き証人として、その命を延ばしていかなきゃいけないのは、そういう時代が、人の気持ちを動かしていくのでしょう。
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corobo at 2005-08-17 03:51
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webtyuu at 2005-08-17 23:11
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rin6174 at 2005-08-20 20:15
さんきちさん
母が亡くなってからの方があれこれ心の中で話をしているような気がします
何事においても、主観と客観を超えて考えられるようになりたいと今つくづく思います
建物の痛々しさに共感してくださってありがとうございます
母が亡くなってからの方があれこれ心の中で話をしているような気がします
何事においても、主観と客観を超えて考えられるようになりたいと今つくづく思います
建物の痛々しさに共感してくださってありがとうございます
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rin6174 at 2005-08-20 20:29
taboさん
人が人を殺すことは、人をただの生物として見た時にどんな位置付けになるのか、
生物である責任を思い、考えてみたことがあります
でも、やはり理屈より感情が先に立ちます
もし私に子供が居たら、疑いなく愛を真っ先に思える人生を送って欲しい
とただただ、そう思うでしょう
子供達が、素直に未来に夢を持ち、笑顔で暮していける世界を切望します
人が人を殺すことは、人をただの生物として見た時にどんな位置付けになるのか、
生物である責任を思い、考えてみたことがあります
でも、やはり理屈より感情が先に立ちます
もし私に子供が居たら、疑いなく愛を真っ先に思える人生を送って欲しい
とただただ、そう思うでしょう
子供達が、素直に未来に夢を持ち、笑顔で暮していける世界を切望します
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rin6174 at 2005-08-20 20:37
ringoameさん
今は見かけませんが、私が子供の頃、既に戦後数十年経っているのに
原爆ドームの周囲に軍服を着た人が何人も軍歌をテープで流し、お金を入れてもらうための
箱を持ち、ゴザを敷いて座っていました
腕や足のない人もいましたが、本当に傷痍軍人だったかどうかはわかりません
いずれにせよ、戦後60年も過ぎた今は見かけません
忘れてしまわないよう、伝えなければならないことなのかもしれません
今は見かけませんが、私が子供の頃、既に戦後数十年経っているのに
原爆ドームの周囲に軍服を着た人が何人も軍歌をテープで流し、お金を入れてもらうための
箱を持ち、ゴザを敷いて座っていました
腕や足のない人もいましたが、本当に傷痍軍人だったかどうかはわかりません
いずれにせよ、戦後60年も過ぎた今は見かけません
忘れてしまわないよう、伝えなければならないことなのかもしれません
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rin6174 at 2005-08-20 20:43
coroboさん
亡くなった母とは今になって心の中であれこれ会話したり、問いかけたりしています
生きていた頃には気づかなかったことに、はたと思い当たることが今あります
亡くなる前の一年間はこちらを認識せず反応もなかったので、話が出来た頃の母とは
今になりまた会話が再会しています、私の心の中で
亡くなった母とは今になって心の中であれこれ会話したり、問いかけたりしています
生きていた頃には気づかなかったことに、はたと思い当たることが今あります
亡くなる前の一年間はこちらを認識せず反応もなかったので、話が出来た頃の母とは
今になりまた会話が再会しています、私の心の中で
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rin6174 at 2005-08-20 20:48
酎さん
事の善悪は、自分に言い切れませんが、
「あれは正しい行為だったと言い切れる」ことはやはり違うと思います
自らの行為をもっと慎重にジャッジしようとするところから、
将来への道は始まるのではないでしょうか
事の善悪は、自分に言い切れませんが、
「あれは正しい行為だったと言い切れる」ことはやはり違うと思います
自らの行為をもっと慎重にジャッジしようとするところから、
将来への道は始まるのではないでしょうか